―私、松本岳史は今年度基礎演習イを一年間受講した集大成としてここにこのペェジを作成するものである―
受講しようと思い立ったのは、学友横山君に勧誘を受けたのが最初だったと記憶している。
主体性の無さは、何時如何なる時でも私の深層に厳然として根付いている。
早いものであれから一年が経とうとしている。人数が少ないものだから各人が毎週発表をせねばならぬ。当初は
戸惑い、そしてのたうちまわったが、大いに得るものはあった。自らの勉強不足を痛感させられた。そこで挫けずに
這い上がる根性が自分自身に必要であった。
2年生の私は、サークル等の活動を除けばゼミの類に参加するのはこれが初めての経験であった。そのこともあって、一年を通じて痛感させられたのが、そこで求められる主体性であるとか、積極性ということについてである。通常の講義とは違い、黙って座って聴いているだけということは許されない。講義の具体的な内容に関する事柄よりも、まずそのことが一番大きかったように思う。
また、議論をするということに対する心構えを、それを実行したかどうかは別として、学べたのではないかと思う。つまり、どんな議論にも
まずその基盤を形成するものとして知識量というものがあるのだということだ。頭の回転だとか、ディベートのテクニックだとか、さまざまな要素がありこそすれ、知識が無くては先に進むことができないのだと感じたものである。当然といえば至極当然のことである。しかしながら、実際に自らの身をもって体験したことは、大きな教訓になった。
前半期を通じて講読したのがこの本である。社会科学そのものについての 入門書であるわけだが、三つのテーマを基 軸として取り扱っている。即ち、「日本国憲法」、 「マルクス主義」、そして「天皇制」である。いずれも こうして社会科学部の学生として学んでいれば、自然と接する機会は多くなるテーマである。しかしながら橋爪氏の 独特の視点であるとか、また自らの実体験に照らし合わせた上で日本におけるマルクス主義の光と影を説く部分は非常に興味を惹かれた。 最終的には、この基礎ゼミの最初の時間に上沼先生がぽつぽつと語られた、社会科学部における基礎科目社会科学分野の意義ということについての考察 とも関わることであるが、社会科学を学ぶに際して、その意義や有用性を探る上での手がかり、旗印としての役割がこの本には課されていたのであり、その意味で 大いに得るものがあったと思う。
若干年寄りじみているようでもあり、また宗教じみてもいるが、最近私は幸福論的なものについて興味を持っている。
万人の望むところの究極の社会とは如何なるものか。恐らくそれは各々が自分なりの幸福というものを感じる
原因は違えど、我々が目指すべき普遍的な類の幸福というものがあるのではないか。貧困、暴力等排除することでそれに近づける
ことはあるが、より能動的な姿勢で幸福の追求にという問題に対峙できないかと思う。何のために皆が勉強するのかといえばそういうことがあるから
ではないか。そんな至極当然なことに頭を悩ませてみるのも悪くないかなと思っている。