book
■関廣野「民族とは何か」講談社現代新書
■上野千鶴子編「構築主義とは何か」勁草書房
構築主義(constructionism,constructivism,構成主義、社会構成主義)とは論者によって
その含意するところはさまざまであるが、最大公約数的にいえば「ある事象Xは、自然的/
客観的実在というより/ではなく、社会的に構成されたものである」という認識の形式を
共有するものだという(赤川学)言い換えればわたしたちが生きる世界は言語によって
作られており、その外に世界はないといった考えである。そして、その言語は人々の
相互作用によって日々構築されていくものである。しかしその構築はけして自由なも
のではなく、人々の相互了解が常に求められるものであり、そのため日々「状況定義の闘争」
が繰り広げられる。また言語は社会制度と結びつくものでもあり、そのため言語が権力や利害
によって絡みとられないように、言語を生産することやそのものや専門家を反省的に考える作
業が必要であるという
例えば「インクのしみのついた紙の束」に対して「本」という言葉的カテゴリーを与える過程は、
他の人々の了解、他の人々もそれを本だと思っていることを必要とする。自分だけが本だと思って
いても、それは本にはならないのだ。そして、その人々の相互了解によって、例えば「本」だと
思っていたものが次の日には「コウモリ傘」になっていた、などというような、ある言葉を発した
次の瞬間にすでに言葉の意味が変わってしまい、コミュニケーションが不可能になってしまうとい
う気苦労な事態を想定しなくてすむのだという。
そして、構築主義は様々な学問分野にわたって学際的に展開している。この本でも「文学」「歴史学」
「人類学」「セクシャリティ」「ナラティブセラピー」といった分野でその成果について論じられている。
面白かったのは「従軍慰安婦論争」と「ナラティブセラピー」に関した部分。言語によって世界は構成さ
れその外に実体的な何かは存在しないとしたら客観的な歴史的事実も存在しないことになる。従軍慰安婦論争
において、慰安婦の存在を否定する人たちは「慰安婦は強制連行されたと証明できるか」「軍の関与は、
実際に公文書によって裏づけたり証明したりすることができるのか」といった主張をする。
上野千鶴子はそのような主張に対し歴史の「真実」や「事実」が実在するのではなくただ特定の視覚から
の問題化による再構成された「現実」があるだけだとし、従来文書の補完物とされていた「語り」に、あえ
て積極的にコミットすることを主張する。そこでは慰安婦の証言と公文書が等価なものだということを意味する。
それは逆に見れば例えばアウシュビッツの生き残りの証言とホロコーストはなかったという人たちの主張が等価
なものとして扱われうるのかどうかという問題を孕んでいるという主張がある(荻野)
また過去に負った不幸な出来事がトラウマになり今現在もそれで苦しめられている人がいたとする。
構築主義は言語によって世界が構成され、それは日々の相互行為によって変化しうると考える。
だとするなら、トラウマを負うような体験もそれを言語化して語り直していくことで、
不幸な体験によってトラウマを受けたわたしという物語から新しい私の物語へと書き換える
ことができうるということを示す。少なくともその不幸な体験は一生不幸な体験であり続けるわけではないのだ。
もちろん、言語の外に世界はないと言ったところで、それが現実にどの程度リアルなものなのかはわからないが、
少なくともこのような考え方によって、変わらないと思っていたものは変わりうるものであり、自らで変えていく
こともできるのではないかという希望をもたらしてくれるのではないだろうかと思う。
■西部忠「地域通貨を知ろう」岩波ブックレット