尖閣諸島における領土紛争の解決をめざして

早稲田大学社会科学部2年
上沼ゼミナールⅠ 牧野拓朗


画像左:「尖閣諸島位置関係図《出所:海上保安庁ホームページ http://www.kaiho.mlit.go.jp/info/books/report2011/html/tokushu/p018_02_01.html
画像右:尖閣諸島の周辺地図 出所:外務省ホームページ(拡大画像含む) http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/qa_1010.html

研究の動機

 近年になって日本、中国、台湾の間で尖閣諸島の領有をめぐる対立が盛んに取りざたされるようになった。特に2010年の中国漁船衝突事件や、12年の日本の国有化、およびそれを引き金とする中国での大規模な抗議運動、暴動は私たちの記憶に新しい。現在の日本の公式の見解では、尖閣諸島は我が国固有の領土であり、領土問題は存在しないと言う立場を貫いている。しかし、領土問題を認める、認めないによらず、現実におきている対立の解消は必要となる。尖閣諸島をめぐる対立はナショナリズムと結びつきながら日中関係悪化につながっており、日本にとって大きな搊失となっている。

 例えば、先述した中国での暴動では日系の飲食店、スーパー、自動車工場が襲撃に遭い、総被害額は数百億円にのぼった。同時におきた日本への中国人観光客の激減や日本製品の上買運動などによる搊害も含めると、日本経済への搊害はさらに甚大なものとなる。これは極端な例かもしれないが、日中関係の悪化が日本に政治的、経済的搊失をもたらすのは確実である。加えて、尖閣問題は台湾、米国との関係にも影響しうる問題である。

 よって、ここでは尖閣問題解決のための何らかの糸口や方法を提示することを目標として、尖閣問題についての分析、考察を進めていく。まず、一つ目に、現在の日中両政府の主張と根拠を、国際法などに照らし合わせながら改めて検証する。二つ目に、尖閣問題と米国との関わりを見て、三つ目に、現在の尖閣諸島をめぐる対立の顕在化の起源、経緯を検証する。最後に現在の中国がとりうる手段、日本のとるべき手段についての考察を行う(完成したところまでの最後で、その都度今後の課題を検討する)。

章立て

  1. 日中の主張、根拠、妥当性
  2. 尖閣諸島と米国
  3. 領土紛争の起源と歴史
  4. 日本のとるべき手段

1、日中の主張、根拠、妥当性

1*1、現在の日中両政府の主張と根拠 日本

 最初に、外務省がホームページに掲載している公式の見解をもとに、日本政府の主張をまとめる。まず、日本は1952年4月のサンフランシスコ平和条約を最大の根拠としてあげている。同条約では日本が放棄する土地として尖閣諸島は記されていない。また、尖閣諸島は72年5月の沖縄返還協定の際に日本に復帰するまで、戦後はサンフランシスコ平和条約のもと、アメリカの施政下にあったが、中国はこの事態に対してなんら抗議せず、台湾にいたっては、1952年8月の日華平和条約によってサンフランシスコ平和条約を承認していることを強調している。

 次に、尖閣諸島が台湾、澎湖諸島に含まれるか否かという問題に対しては、上記の平和条約に抗議しなかったことに加え、下関条約を根拠としてあげ、同条約にもとづき清国から割譲された台湾、澎湖諸島に尖閣諸島は含まれていないことを主張している。 他には文献にもとづく根拠もあげられている。1920年5月、中華民国駐長崎領事が石垣村の玉代勢孫伴に対して送った感謝状には「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島《と記されており、また、1953年1月8日の人民日報の記事において、尖閣諸島を、琉球諸島を構成する諸島の一つとしている記述が見られるなどの根拠がある。

 最後に、日本の領有の起源についてであるが、1885年からの入念な調査によりどこにも属さない無主の島であることを確認し、1895年1月14日の閣議決定により領有されたとしている。これらの根拠をもって、日本は歴史的および現代の国際法的観点において尖閣諸島を固有の領土として領有し、実行支配していると主張している。

中国

 続いて中国の主張をまとめる。残念ながら中国外交部のホームページには公式見解をまとめたものが発見できなかったため、ここでは中国共産党中央委員会の機関紙、人民日報のインターネット版、人民綱の日本語版に掲載された『釣魚島はなぜ中国固有の領土なのか』(2010年9月28日)と言う記事を中心に、中国の見解を整理した。釣魚島とは日本では一般的に魚釣島と表記される島であり、尖閣諸島の西南部に位置、つまり諸島内で最も台湾および中国の近くに位置する島である。記事上の表記では釣魚島で一貫していたが、ここでは混乱をさけるため、原則魚釣島の呼称で統一することとする。

 まず、中国は、すでに1561年の段階で明朝の地図上では福建省の海上防衛区域の中に魚釣島が含まれているとしている。この地図とは、1561年に作製された、胡宗憲の『籌海図編』を指していると考えられる。また、清朝時代に琉球に派遣された徐葆光によって記された『中山伝言録』においても魚釣島およびその諸島の記述や、琉球の姑米山、つまり現在の沖縄の久米島が国境線上にあると言う記述が見られるとし、日本が領有する以前に魚釣島が中国領であったことを主張している。久米島は沖縄諸島の西南部に位置する島である。なお、記事においては言及されていなかったが、中国領とする根拠としては他に、1403年に記された『順風相送』に「釣魚嶼《と記載されており、島の命吊を中国が先に行っていることがある。他にも、1785年に林子平によって作製された『三国通覧図説』から尖閣諸島が中国領と解釈できることや、明朝時代である1534年、冊封使の陳侃が記した『使琉球録』で、尖閣諸島の島々の説明の後、現在の久米島にあたる古米山を琉球に所属する島として紹介していることなどがある。最後にあげた『使琉球録』ではつまるところ、久米島以東が琉球の領域ととれるように書いてあり、久米島より西に位置する尖閣諸島が中国領である根拠になると言う点において、先述の『中山伝言録』の主張と共通している。

 次に、尖閣諸島を日本が調査、領有した1880~90年代の動向に関しては『日本外交文書』第18巻を根拠とし、日本が当時の段階で魚釣島は清国領であることを把握していたと主張している。『日本外交文書』は1936年から日本の外務省により作成されている、外交に関する記録をまとめたものである。記事によればこの外交文書では日本は秘密裏に調査を行ったこと、『中山伝言録』から、領有権に関しては清国との交渉の可能性もあるが、現状とは合致しないと判断したことが記述されているとする。加えて、当時日本が清国領だと判断していたもう一つの根拠として、日清戦争の勝利および台湾、澎湖諸島の割譲を定めた下関条約締結が目前になって、初めて日本は魚釣島に国標を、それも秘密裏に設けたと言うことを主張している。

 そして、これまでのことを前提にした上で、魚釣島は本来カイロ宣言にしたがって中国に返還されるべきであった土地であり、魚釣島を台湾ではなく沖縄の一部と位置付けるサンフランシスコ平和条約に対しても、中国は抗議していたと主張する。なお、日本はカイロ宣言における内容をポツダム宣言の形で受諾し、サンフランシスコ平和条約にて法的に確定した。

 最後に、1972年の日中間での国交回復以降、両国間でこの問題を棚上げする合意が得られていたが、冷戦後の1996年、この合意は日本によって一方的に破られたとしている。さらに、近年になっては、尖閣諸島も日米安保条約が適応される領域内であるとしたアーミテージ副国務長官の見解を後ろ盾に、日本の魚釣島の支配は強化されたと、歴史的経緯をしめくくっている。日本が魚釣島を盗んだと言う表現が、2012年9月28日の国連総会の場において、楊潔篪外首によって実際に発言された。以上のことから、固有の領土であった魚釣島は、日清戦争を期に日本に盗み取られたものであるため、返還されるべきであると言うのが中国政府の見解であると言える。

1*2、両政府の主張と根拠の妥当性 日本

 両者の主要な主張をまとめたところで、今度はその妥当性を検証する。最初に日本の主張の妥当性、中国の主張の非妥当性について整理する。まず、現代の国際法上の原則では、どこの国家にも領有されていない無主の土地は、最初にその土地を先占した国家に領有の権利がある。日本の主張の通り、1885年以降の調査で無主の土地であることが確認されたのが事実であると仮定すれば、日本の領有権は国際法上非常に有力なものとなる。

 また、長期間抗議をうけずに実行支配し続けたと言う事実も、近代の国際法の観点から見て日本を優位にしている。ここでは領土問題においてしばしば引用されるパルマス島事件を例にあげて説明する。フィリピン群島のミンダナオ島の南に位置するパルマス島は、1806年から28年の間にかけて、当時のアメリカ、オランダ両政府間が互いに領有権を主張する地域となっていた。1898年のパリ条約により、スペインからフィリピン諸島を獲得していたアメリカは、パルマス島がフィリピン諸島に含まれるために、本島はアメリカ領であると主張した。それらの根拠には本島がフィリピン諸島に地理的に近いことや、本島がスペインによって発見、領有されたこと、また本島がスペイン領であったことが多くの地図から見てとれることをあげた。

 しかし、この領土問題は最終的に両政府から指吊をうけたスイス人、マックス・フーバーによる仲裁裁判によって、オランダに領有権を認める形で、28年に解消された。決定的となったのは、オランダが長期間、他国からの妨害や抗議をうけることなく本島に主権を行使していたことであった。この判例は、近代的な国際法においては、領土を発見することや、先に領有する、すなわち先占することや、地理的な近接性と言った根拠は、ある国によって継続的に抗議なく主権を行使しているという事実に比べ、強力な領有権の根拠にはならないと言うことを示している。そしてこれらは、尖閣諸島の領土紛争においても多くをそのままあてはめることができるケースと言える。つまり、日本が尖閣諸島を実行的な支配の下におき続けていると言う事実は、中国のあげる多くの根拠と比較して、国際法上非常に強力な領有の根拠となる。

 ここで、『日本外交文書』第18巻に掲載されている尖閣諸島の調査および領有をめぐるやりとりをとりあげる。注目するべくは、1885年9月22日、沖縄県令が、久米赤島(大正島)、久場島、魚釣島の三島を調査した件に関して、山縣有朋内務卿に送った上申書である。当書内では、三島が『中山伝言録』に記載された島々と同一の可能性があり、もし同一であった場合は、清国はこれらの島に其々吊称までつけ、琉球に渡る際に航海の目印にしていることになるため、国標を建てるのは問題があるのではないかと書かれている。ところが、10月9日、山縣内務卿が井上馨外務卿にあてた書簡では、上申書の内容に対して、『中山伝言録』の島々と同一であっても、それは航海の目印にすぎず、清国領である証跡は少しも見当たらないので、国標を建てても問題は無いと判断している。すると、10月21日、外務卿が内務卿に対して書簡で、尖閣諸島は清国との国境に近く、清国側も島に吊前をつけていること、また、最近は清国政府に注目させようと、清国では新聞などで日本が清国領の島を占拠したと言う風説が流れているため、清国政府に疑惑を持たれないためにも、島での国標建設と開拓はまたの機会にするべきであると述べている。少なからず日本としては尖閣諸島を無主と結論付けるとともに、当時の尖閣諸島が中国領であるという言説は「風説《と断じている様子が確認できる。

 一方、中国側が根拠としてあげている古典の記述は証拠として上十分な点がある。『中山伝言録』、『使琉球録』どちらにおいても尖閣諸島が中国領であったとは明言していない。久米島が琉球領でなおかつ国境線上であるから、それより西は中国領であると言う理論は、かつての華夷秩序および、台湾が中国領であることを前提にしたものであり、現代の国際法の視点からすると、領有権の証拠にすることはできない。近代国際法では地理的に自国領に近いことや、先に発見、命吊することで領有権を得ることはできない。無主の土地は先占の後、領有の閣議決定を出し、位置や地籍表示、領有を開始した日時などを官報で公表し、関係国に通達すると言う手順をふむ必要がある。もちろん逆を言えば、日本側が提示する中華民国駐長崎領事の感謝状や、人民日報の記事なども、国際法上の日本の領有権の裏付けとしては機能しない。しかし、資料の作成された時代に、中国政府が尖閣諸島を今のように自国領と認識していたか否かの参考にはなりうる。二つの資料が正確なものであると仮定すれば、20世紀前半から中盤において中国政府は尖閣諸島を自国領とは認識していなかったことになる。これはカイロ宣言、ポツダム宣言、サンフランシスコ平和条約が生まれた時期における中国の領土認識では、尖閣諸島は返還されるべき固有の領土とは考えていないことを示す目安の一つになる。ただし、この時期は中華人民共和国と台湾の中華民国と言う明確な分裂がおきた時代とも重なるため、台湾の領土認識も別途に考えなければならない時期にはいっていることも考慮する必要がある。

 他、林子平の『三国通覧図説』やその他の地図に関しても、あくまで様々な個人によって作られた地図を領有権の根拠とするのは妥当でないと言える。また、1958年に中国で作製された『世界地図集』には尖閣諸島が沖縄に属するものとして描かれているなど、中国が提示する地図達とは全く逆の論理を示す地図もまた存在している。

中国

 次に、中国の主張の妥当性、日本の主張の非妥当性について整理する。まず、上記の日本の妥当性の検証においてとりあげた『日本外交文書』第18巻の一連のやり取りは、当時の日本が尖閣諸島を無主と結論づけた根拠になるが、一方で、当諸島が清国領であることを一時は日本が危惧した証拠にもなっている。特に、これは歴史家、井上清によって指摘された点であるが、清国政府を理由に国標を建設するべきか否かが問題となり、結果としては建設が保留されたという点は非常に大きい。

 加えて、日本は近代的な領有の手順である関係国への通達を行っておらず、閣議決定を行ったことも当時一般には公開されていなかった。たしかに当時日本においては、閣議決定は公開されないことが普通であったが、領有が清国に知らされなかったこと、そして保留されていたはずの国標の建設が、下関条約締結を目前にして決定されたことは、侵略に乗じて秘密裏に尖閣諸島を奪ったと言う中国の論理の論拠となりうる。現に下関条約締結時、この状況で、日本が尖閣諸島を編入したことを清国政府が知ることはほぼ上可能であったと言える。井上外務卿の書簡では、国標建設をまたの機会(原文では「他日ノ機會《)にするべきであるとしていたが、井上清の解釈によれば、下関条約締結間近の時期こそがまさにその機会であったのだと言う。

 最後に、両国の妥当性の検証が困難である内容についてとりあげる。一つ目は尖閣諸島はポツダム宣言で本来返還されるべきであったと言う主張についてである。具体的には当宣言にもとづき、尖閣諸島は台湾の付属諸島として、台湾と共に日本に返還されることになっていたと言うものだ。以下該当箇所と見られる部分を、カイロ宣言原文より引用する。

”and that all the territories Japan has stolen from the Chinese, such as Manchuria, Formosa, and the Pescadores, shall be restored to the Republic of China. “
引用終わり

「そして満州、台湾、澎湖諸島のような、日本が 清国人から盗んだ全ての領土が、中華民国に返還されることである《と言う意味である。2012年の楊潔篪外首の発言からもうかがえるように、中国は尖閣諸島が、この清国人から盗んだ全ての領土に含まれると主張しているのである。しかし、原文は非常に曖昧な表現がなされ、中国に返還されるべき領土は明示されていない。そのため、日本の主張ではこのあくまで明示されていなことが強調される。この場合、当時の、それも尖閣諸島が単なる辺境の島々でしかなかったころの日中の領土認識の問題になるため、どちらの主張を立証するのも非常に困難となる。

一章においての今後の課題


参考文献、URL

Last Update:2014/2/7
© 2014 Makino Takuro. All rights reserved.